岐阜イベント・名産の紹介

岐阜県にて開催されるイベントや名産品を紹介しています。

地域 春日六合
地域について

春日六合は岐阜県揖斐郡揖斐川町にある自然豊かな土地です。旧春日村は君が代でも歌われるさざれ石発祥の地としても有名です。

また、日本でも大変希少な在来種の茶の木による春日茶でも名を馳せています。春日茶は9世紀から12世紀の間に中国から日本に伝来したお茶の品種である事がわかりました。

春日茶の特徴として遺伝子型がそれぞれ固有のものとなっており、害虫や気候変動に強い品種となっております。 茶畑と聞くと整然とならんだ風景が想像されますが、春日の在来茶木は地中深く根を張り、モザイク状に広がる様子は日本のマチュピチュとも言われる程。

広大な山間の敷地に作られた薬草園や、岐阜の棚田21選にも選ばれている貝原棚田は日本の原風景ともいえる景色が広がっています。

大垣祭

大垣祭は、岐阜県大垣市に初夏の訪れを感じさせる伝統的なお祭りです。平性年3月2日には、「大垣祭のやま行事」が大垣市では初めての国重要無形民俗文化財に指定された事もあり、美濃地方を代表する祭礼行事として一層の賑わいを見せています。 その中でも一部、岐阜県の重要有形民俗文化財にも指定されている山車による行事が見もので、祭に華を添えています。13両の山車は神楽やま、大黒やま、恵比寿やま、相生やま、菅原やま、鯰やま、榊やま、玉の井やま、松竹やま、愛宕やま、猩々やま、布袋やま、浦島やまと呼ばれ、からくりとして仕立てられた各やまは大垣八幡神社の鳥居前で奉芸や掛芸披露を行います。

朴葉ずし・みょうが寿司

朴葉ずしとは岐阜県飛騨地方・東濃地方・中濃地方に伝わる郷土料理の一つ。5月5日の端午の節句に昔から作られています。

酢飯の上に舞茸・わらび・紅しょうが・キュウリ・鮭の切り身など色々な具材をのせて朴葉にくるんで紐で結びます。具材は地域や家庭によって異なります。

酢飯や朴葉の殺菌効果が重宝され、お弁当にもよく作られます。

みょうが寿司とは、岐阜県美濃加茂市で作られる郷土料理。具材にみょうがが入っているからみょうが寿司と呼ばれるわけではなく、みょうがの二枚の葉でくるんだ寿司なのでみょうが寿司と呼ばれています。

うだつ

美濃市は岐阜県のほぼ中心部に位置し、美濃和紙の生産地としても有名な市です。美濃和紙と並び、「うだつのあがる町並み」としても名を馳せています。よく耳にする慣用句「うだつの上がらない」の語源の1つとして考えられる「うだつ」とは、屋根の両端に類焼を防ぐために作られた防火壁のことです。うだつの設置にはそれなりの費用が必要だったため、そのような言葉が生まれたのですね。美濃市では当時の豪商たちが自身の財力を誇示するように競って立派なうだつを設けました。その甲斐もあり、美濃の市街地は1999年5月に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、今では観光地としても定着しつつあります。

自噴水の里

大垣市は全国でも有数の自噴帯に位置しており、豊富な地下水の恵みにより水の都と呼ばれてきました。

以前は各家庭で井戸舟を持ち、地下水を活用して生活していましたが、現在ではその面影も薄れつつあります。

しかし、いまでも良質な地下水が自噴している井戸は数多く見られ、最近になって自噴水が復活したところもあります。

※井戸舟・・・地下水を受ける水槽で三槽等になっているものです。

水郷まつり

岐阜県にある中川水郷公園の、多目的広場東堤防から約600発の花火が打ち上げられる。ナイアガラや噴水、小型煙火、火輪などバラエティ豊かな花火が登場。さらに、灯ろう流しや盆踊りも行われる。

円空

円空は寛永9年(1632)美濃国郡上郡(ぐじょうぐん)の南部、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)山麓(美並村)で木地師の子として生まれたと推定されています。

少年時代から山野を歩きまわると共に星宮神社の別当寺である粥川寺に出入りし、雑役のかたわら経文や手習いを教えられ、その間に周辺の山々や伊吹山・白山などに登り、山伏修験との交流があったと考えられています。

そして修験道への理解を深め、木喰戒を受け、その結果全国各地の霊山をめぐって験力をたかめ、庶民救済という誓願を実現するためには得度が必要との考えに達し、寛文3年(32歳)粥川寺において得度したものと考えられます。

素朴な鉈さばきが生んだ円空仏の魅力。その顔に浮かぶ不思議な微笑みは、何かを語りかけているかのようです。円空上人が円空仏を通して今の世界に話しかけたかったことがあるように思えてならないのです。

何も語ることのない円空仏。でも、私たちは円空仏に円空上人の言葉を確かに聴くのです。私たちのふるさとは、多くの像を彫った庶民宗教家のかけがえのない生まれ故郷でもあります。

おちょぼ稲荷

■商売繁盛の神様

おちょぼさんの愛称で親しまれているお千代保稲荷神社は、日本三大稲荷の1つとして知られ、年間二百万人の参拝者で賑わっています。

社殿の入口の近くにお供え用のお酒と油揚げを売る店があり、藁に通された三角の油揚げがおもしろいようにさばかれています。参拝者はこの油揚げをお供えして、商売繁盛などのお願いごとをしますが、そのお供え物が拝殿の前にどっさりと並べられ、普通の神社では見られない風景です。

「千代保稲荷神社」が正式な呼び名で、大祖大神、稲荷大神、祖神が祀られています。この神社は八幡太郎義家の六男義隆が分家するとき、祖先の霊璽、宝剣、義家の画像の三点を「千代、千代に保っていけ」と賜ったのが始まりで、「千代に保て」の由来からきています。源氏が滅びてから文明年間(今から約五百年前)に、森八海がこの須脇の里を開き、義家公から授けられた源氏の霊璽を祀ったのが始まりといわれ、森八海を開祖として、現在で十九代目になります。

なお、お供えの油揚げはお狐さんとは関係なく「イナリのナリは、物や生命を生み出す神」のことで、農業や商売繁盛に関係があります。

油揚げをお供えするのは、揚げ物には蛋白質や脂肪が含まれていて体に良いという理由からです。

大垣市奥の細道むすびの地記念館

大垣は、俳聖・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えたむすびの地です。

市では、中心市街地の一層の活性化と回遊性の誘発に向け、歴史と文化が息づく船町・美濃路界隈で、芭蕉が「奥の細道」の紀行を終えたむすびの地周辺に、文化の薫り高い大垣の個性を生かした「憩いと賑わいの空間」を創出するため、奥の細道むすびの地周辺整備に取り組んできました。

記念館では、紀行文「奥の細道」の解説をはじめ、松尾芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介する「芭蕉館」、大垣の歴史や文化・芸術を築き上げた幕末の先賢の偉業を紹介する「先賢館」、大垣市と西美濃地域の観光情報や全国の芭蕉関連施設を紹介する「観光・交流館」の3館と、大垣藩藩老・小原鉄心の別荘で、市指定文化財である「無何有荘大醒榭」から構成されています。

木曽三川

全てが木曽川水系に含まれ、濃尾三川とも呼ばれる。木曽三河と表記する資料もあるが、これは誤りである。長良川と揖斐川は、伊勢大橋と揖斐長良大橋の中間付近で合流して一つの川となる。立田大橋と長良川大橋の南側の木曽川と長良川に囲まれた地域は、輪中を代表する地域となっている。各地域に国が、国営木曽三川公園を整備している。

かつて、この三本の川は、下流部で合流・分流を繰り返し、たびたび水害を起こしていたため、江戸時代以降何度となく改修が行われてきた。有名なものは薩摩藩が行った宝暦治水とオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケらによる木曽三川分流工事である。木曽三川公園センターの南には、その際に松が植えられ千本松原と呼ばれている。各地で渡し船(葛木渡船、森下渡船など)があったが、橋の建設による道路の開通に伴い順次廃止されている。三つの河川が最も密集する箇所は、愛知県道・岐阜県道・三重県道125号佐屋多度線の立田大橋、長良川大橋、油島大橋が連なる箇所付近である。

清流めぐり利き鮎大会

2008年、清流・長良川の「郡上鮎」がグランプリを受賞しました。大会は「清流めぐり利き鮎大会」です。

この大会は河川環境の善し悪しを観るひとつの指標として鮎の味を競い、水や川の大切さを訴える場にしようと平成10年に第1回を開催して以降、毎年開催されています。川底の藻を食べて成長する鮎のおいしさは、その鮎の棲む河川の美しさを示すバロメーターとなります。

白川郷の合掌造り集落

世界文化遺産「白川郷・五箇山合掌造り集落」・・・平成7年12月、岐阜県白川村荻町(白川郷)と富山県上平村菅沼、平村相倉(五箇山)の3集落が世界文化遺産に登録された。白川郷を訪れる観光客は、登録前で約60万人程度だったものが、世界遺産に登録されると格段に増え、平成8年に100万人、昨年は150万人を突破したと言う。人口わずか2000人程度の小さな村に、秋田県の人口117万人を遥かに上回る観光客が押し寄せる。風土、歴史、民俗文化を活かした美しい村づくりの凄さを改めて考えさせられた。

合掌造りは、2本の部材を山形に組み合わせてつくるサス構造で、屋根が両手を合わせたような形になっていることから名付けられた。豪雪に耐えられるように屋根は60度に近い急勾配で、ほぼ正三角形の特異な形をしている。

日本各地のサス構造の民家は、屋根裏を物置程度にしか使われていない。白川郷の合掌造りは、妻面に開けられた白い障子窓から充分な採光と通風を確保し、内部を二層〜五層に造り、養蚕のための場所として利用していた。つまり、養蚕のために広い屋内空間を必要としたことが、合掌造りを生み出したと考えられている。

水まんじゅう

大垣は古くから“水の都”と言われています。

おいしく豊かな地下水に恵まれ、近年まで市内のあちこちで自噴水が湧き出ていました。“水まんじゅう”はこの清らかな名水によって明治時代の初めに生まれました。

大垣の地下水をふんだんに使ってさらしたあっさりした餡、それを包み込む葛粉とわらび粉でつくられた美しく透明な皮。その水まんじゅうが「猪口」という陶器に入れられ、涼しげに水底に沈んでいる姿は水都大垣の夏の風物詩となっています。大垣の銘菓・和菓子を是非どうぞ。

鶏ちゃん

鶏ちゃん(けいちゃん)とは、岐阜県の郷土料理の一つで、鶏肉を使用した料理である。「けいちゃん」とも表記され、「鶏ちゃん焼き」ともいう。

元々は飛騨地方南部の下呂市(旧益田郡)や高山市南部、中津川市北部、奥美濃地方の郡上市の家庭料理である。1950年頃から食されていて、1960年頃から、地元の精肉店や居酒屋が独自に改良したと言われる。

「ひょうたん」と同じく「↑け↓い↑ちゃ↓ん」という発音である。

北海道のジンギスカン料理が起源になっていると言われる。日本では1918年(大正7年)に軍隊、警察、鉄道員用制服の素材となる羊毛自給をめざす「緬羊百万頭計画」が立案された。その早期実現のために羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、農家の収入増加と、飼育頭数増加を企図した。しかし日本人は従来、羊肉を食べる習慣がほとんどなく、産業廃棄物として畑の肥料として使われるような状態だった。この状況下、北海道では羊肉の臭みを消す調理法としてジンギスカン料理が生まれた。その後ジンギスカン料理は他の地域にも広まるが、局所的なものに限られた。

岐阜県においても例外ではなく、かつて羊の飼育が盛んだった地域でジンギスカン料理が広まるが、一般に普及せずに、牧羊が途絶えると同時に消滅した。しかしその調理法を応用して、鶏肉を同様に調理するようになった。これが鶏ちゃんの始まりである。羊肉か鶏肉かという違いを除けば、味のついた肉を野菜と一緒に焼いて食するという点において、ジンギスカン料理と同一である。

また「鶏ちゃん」の名称は、同じく北海道の名物料理で、魚を焼く類似の料理「ちゃんちゃん焼き」に由来すると言われる。

朴葉みそ

朴葉みそとは、枯朴葉の上に味噌をのせ焼いて食べる飛騨の郷土料理です。飛騨の味噌は、基本色は濃い赤みそのような色ですが、塩分は全体に控えめで旨味と麹の甘みが特徴です。

元々は飛騨地方南部の下呂市(旧益田郡)や高山市南部、中津川市北部、奥美濃地方の郡上市の家庭料理である。1950年頃から食されていて、1960年頃から、地元の精肉店や居酒屋が独自に改良したと言われる。

朴葉みその食べ方は、写真のように味噌にネギなどの薬味、椎茸などの山菜・茸をからめたものを朴の葉に乗せて焼き、ご飯に乗せて食べるのが一般的なようです。

朴葉みそを本格的に楽しみたいという方は、飛騨コンロ(卓上コンロ)がオススメです。民芸品風の味わいが人気の飛騨コンロは高山の土産物屋さんやネットの通販でも販売されています。朴葉味噌以外にも、魚、餅なども焼くことができます。

白山スーパー林道

昭和52年に開通した白山スーパー林道は、石川県と岐阜県にまたがる未開発資源を目的とした林道です。石川県白山市尾添から岐阜県白川村鳩ヶ谷まで総延長33.3km(所要時間約1時間)あります。景観に恵まれていることもあって観光道路としての利用が多く、大型観光バスが行き来しています。供用期間は6月上旬から11月10日まで(積雪の状態によって変更)、気象状態によって通行止めのときもあります。

蛇谷本谷へ流れ出る枝谷には必ずといってよいほど滝がかかっています。蛇谷最大の落差の滝はふくべの大滝で、86mあるといわれています。また、老婆が白髪を振り乱したように落ちる姥ヶ滝は「日本の滝100選」に選ばれています。この2つの滝のほかにも、「蛇谷八景」に含まれる滝があります。

春は新緑、夏は避暑、秋は紅葉、そして残雪(冠雪)の白山眺望や大小の滝が流れ落ちる渓谷美とブナ原生林を抱え、さらに、近年静かなブームを呼んでいる「親谷の湯」の露天風呂など数々の魅力を秘めています。

手軽に「白川遠望」をできるのも白山スーパー林道の魅力です。道は谷沿いから離れ、山の斜面を縫うようになると白山が見えだします。最良の場所は、ずばり白山展望台駐車場です。

植物は、林道沿いの随所でオオバギボウシ、コオニユリ、クマガイソウ、イワギク、リュウノウギク、カライトソウが見られます。ふくべの大滝展望台である観瀑台の斜面で、それらの植物が見られます。

日本三名泉 下呂温泉

下呂温泉(げろおんせん)は、岐阜県下呂市(旧飛騨国益田郡)にある温泉。林羅山が有馬温泉・草津温泉とともに、日本三名泉に数えた(ただし、当時は下呂ではなく湯島と表記)ことから、「日本三名泉」と称されている。

延喜年間から天暦年間の頃に、現在の温泉地から離れた場所である、湯が峰の山頂付近に温泉が湧出したのがはじまりである。

文永2年(1265年)に山頂からの湧出は止まったが、現在の温泉地である益田川の河原に湧出しているところを発見された。このことは開湯伝説における白鷺伝説として伝わる。温泉地は飛騨川の氾濫の度に壊滅的な被害を受けてきたが、その度に復興してきた。

また、「下呂」の名前は昭和以降に使われ始めた名称で、それ以前は「湯之島」と呼ばれていた。この「下呂」の名の起源は律令時代に遡り、駅伝に用いられた「下留」駅が、時代が下って音読みする様になり、転じて現在の音と表記になった。

輪中

輪中(わじゅう)とは岐阜県南部と三重県北部、愛知県西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)とその支流域に存在した堤防で囲まれた構造あるいはその集落のことである。船舶における防水区画のような役割を果たすこともある。曲輪(くるわ)、輪之内(わのうち)とも呼ばれる。

鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちがそれまで下流側に堤防が無い「尻無堤」に堤防を追加し集落全体を囲う最初の輪中である高須輪中が完成した。その後周辺の集落もこれに習い、周辺地域には数十の輪中が形成された。木曽川や長良川の強力な水流が作りかけの堤防を流してしまうことも多く、人柱が捧げられることもあった。

江戸期においては愛知県西部が尾張藩の領土であったため木曽川西岸の堤防は尾張藩を守るために構築された御囲堤よりも3尺(1m)低くしなければならないといった不文律もあったため(異説あり)水害が絶えず、岐阜県側で特に輪中が発達することとなったと言われる。ただし御囲堤は国境よりも東側にあり、また木曽川の河口までは延びていなかったため尾張国内でも弥富市などの御囲堤に守られていなかった地域には多くの輪中が造られている。

明治時代に入って木曽川、長良川及び揖斐川の三川の大規模な治水事業により水害は激減したため輪中の必要性は薄くなり逆に道路交通に支障をきたすとして多くが削り取られたり取り壊されたりした。また戦争中の食糧難によって比較的上流にある輪中は次々に田畑にされ、ほとんど残っていない。

現在でも残る一部の輪中堤防は洪水の際に利用されることがある。昭和51年(1976年)9月12日に起きた水害(通称:9.12水害)では輪之内町の福束輪中の水門を締め切ることでその内側は水害から免れることができた。

竹中半兵衛

秀吉旗下の天才軍師、竹中半兵衛重治の出生地には諸説ありますが、垂井町明泉寺から発見された古文書「過現二世牒」によれば、半兵衛重治は、天分13年(1544)、竹中遠江守重元の長子として、大御堂城(現大野町公郷)に生まれたと記されています。

石碑は、平成8年4月、竹中氏ゆかりの八幡神社の一角に建立されました。

春慶塗

春慶塗(しゅんけいぬり)とは岐阜県高山市などで生産される漆器である。

国内で春慶塗という名の漆器は岐阜県高山市の飛騨春慶、秋田県能代市の能代春慶、茨城県東茨城郡城里町(旧桂村)の粟野春慶等があり、この三つを日本三大春慶塗という。他にも三重県伊勢市の伊勢春慶など数箇所の地域で生産されている。

飛騨春慶は1975年(昭和50年)2月17日、通商産業省の伝統的工芸品に指定されている。 板を立体的に仕上げる曲げの技法が優れている。他の漆器とは違い、天然の木目の美しさをそのまま活かし、透き漆と呼ばれる透明の漆が用いられる。下地の色は黄色、紅が用いられ、完成時の色味を変える。また、軽くて丈夫である。

板物(盆など)、曲物(菓子箱、重箱など)、挽き物(茶托など)が多く、特殊な物として家具、仏壇などがある。